随分と昔、若い頃の祖父の家は川沿いの土手道に面した所にあった。
まわりは田んぼばかりで川の治水工事も進んでいなかった頃の事だ。
家の前のその川はいつも穏やかに流れていて、普段はシジミを取ったり芋や野菜を洗ったり、夏には子供達が水遊びをしたりと、近隣住民の生活の一部になっていた。
しかし、台風や大雨の時は恐ろしく荒れた川になり増水した激しい流れは、川上の家から家財道具などを根こそぎ浚って流す事もあったという。
祖父によるとそんな大雨の後の川岸にはたまに変な漂着物があり、何時ぞやはどこから流されてきたのか、石の間に誰かのお位牌が引っかかっており本当に気味が悪かったそうだ。
祖父の勤め先の工場は家から少し先の橋を渡った付近にあったので、その川沿いの土手道は毎日の通勤経路だった。
ある年の秋、台風で大雨が降った次の朝、祖父が増水した川を横目で見ながらいつものように土手道を歩いていると、遠くの方から此方へと何かが流されて来るのに気が付いた。
立ち止まって目を凝らすと、浮き沈みしながら流されて来たのは何と一匹の犬だった。
祖父はその時一瞬犬と目が合ったというが、濁流に呑まれてあっという間に犬の姿は見えなくなってしまった。犬は悲しげな目をしていたそうだ。
その晩から祖父は高熱を出して寝込んでしまった。
近くの医者に往診してもらったが処方された薬を飲んでもまったく回復する気配がなかった。
(昔の田舎によくある事だが)こうなったら「拝み屋さん」に頼むしかない…と今度は拝み屋のじいさんが呼ばれた。
拝み屋のじいさんは、祖父の枕元で数珠をもみながら暫くじっと様子を観察していたのだが「あんたの所に犬の顔が見える。近頃何か犬に関わった事でもあったのかね」と言ったそうだ。祖父はハッとして、犬といえばもしやアイツか…と先日の川に流されていた犬のことを思い出した。
そして高熱の中、上ずった声でその事をやっとじいさんに告げると、
「そいつだな」とじいさんは膝を打った。
それから拝み屋のじいさんは、神妙な顔をして何やらぶつぶつと唱えて拝みだした。
暫く拝むと「もう大丈夫だべ。その犬はあんたに助けて欲しかったって。
何で助けてくれなかったんだよってあんたを恨んでた。でも、あんな大水だものしかたねえよって、よく拝んで慰めておいた。」「明日にはあんたの熱も下がるよ」と、そう言うとホッとしたようにじいさんは少し笑ったそうだ。
果して本当に次の日には、嘘のように祖父の熱は下がったという。
職人気質で朴訥な祖父だったが、珍しくそんな昔話をしてくれた後、「犬畜生にも心って言うか念って言うか、そういうもんはちゃんとあるんだな…」とぼそっと呟いた。
[ 2021/06/15 ]
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