海・山にまつわる怖い話・不思議な話 2
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『じじいノート その7』
497 :本当にあった怖い名無し:2019/02/20(水) 13:30:12.79 ID:3AeVht110.net
石じじいの話です。
短い話をメモから。
(1)そこに住むと必ず幸福なるという家があったそうです。これは、じじいの故郷の近くの町にあったらしいのです。
貸家だったのですが、そこに住む人たちには、良い縁談、職、和合、健康、金運などがもたらされるのでした。
ただ、ずっと一つの家族が住み続けるということはなく、長くても10年ほどで住人は変わりました。
別に、幸福の後に不幸が襲うので引っ越す、というわけでなかったそうなのですが。
その家は空襲で焼けてしまったのですが、当時でも古い二階建てで、立派な洋間があったそうです。
その洋間には、綺麗なシャンデリアのような照明と色つきガラス(多分ステンドグラスでしょう)があったと。
ただ、その家の飛び石は墓石だったそうです。
(2)じじいは、かなり山奥で、人が死んでいるのに行き当たったそうです。
その人は男性で、山歩きの服装をしていました。
死んでからそれほど日が経っていないような感じでした。
死因はよくわからなかったのですが、めだった外傷は見られなかったそうです。
ただ、その死体のそばに犬が座っていたそうです。
生きた犬が。
別に、その犬が死体を食べたわけでもなく、そこにちょこんと座っていました。
犬は首輪や紐をつけておらず、その死者の飼い犬ではなく野犬のようだったそうです。
じじいは連絡するために下山する時に犬を連れて行こうとしましたが、その犬はそこから動こうとせず、また体も弱っていたようなので、その場に置いて行きました。
地元の人たちと一緒に現場に戻った時には犬の姿はなかったそうです。
『死んだ母親の顔を模した面』
498 :本当にあった怖い名無し:2019/02/20(水) 13:33:00.67 ID:3AeVht110.net
石じじいの話です。
死んだ母親の顔を模した面を作った男性がいました。
彼は早くに母親を亡くしたのですが思慕の念が強く、母親の顔を模した焼き物の面を作りました。
わざわざ、唐津の、名のある陶工に作らせたそうです。
その面は、目を半眼に開いていて穏やかな表情でした。
色が白く美しいものだったそうです。実際、母親は美人だったのです。
ただ、右の額に薄く青い色のシミがありました。
彼の母親の顔にも、同じところに痣があったのです。
「何も、そこまで同じにしなくても」と周りの人は思ったそうです。
しかし、本人が言うには:
最初はそのような痣まで似せて作るという注文はしなかった。
しかし、面を焼いて炉から出して見たら偶然そうなっていた、と陶工から聞いた、と。
それがあまりにも母の痣と似ていたので、作り直しを頼むことなく、ありがたくもらってきたとのこと。
その面は、木箱にだいじに収められて、お盆に彼が取り出して施餓鬼棚にまつり愛おしそうに眺め拝んでいたそうです。
彼は結婚して子供ができましたが、生まれた長女にも同じところに痣があったそうです。
その男性は、それを嘆くことなく、母親と同じだと、むしろ喜んでいるようだったと。
その後、面は、その男性が死んだ時に寺で供養されたそうです。
面自体が、その後どうなったのか(お焚き上げなどされたのか?)は、私のメモにはありません。
ただ、その痣のあった長女の娘(その男性の孫娘)にも、同じところに、ほんのりと薄い痣があったそうです。
この家系は絶えることなく、現在でも続いています。
『遺体を写真に撮影』
499 :本当にあった怖い名無し:2019/02/20(水) 17:33:09.41 ID:3AeVht110.net
>>498
石じじいの話です。
上記の、死んだ母親の面を作ったという人の話と似ています。
北海道で知り合った人がじじいに話してくれたのだそうですが。
北海道は戦前にはニシン漁が盛んでした。
漁場経営者のなかは、3ヶ月間ほどの漁期だけで数億円を稼ぎあげる者もあったとか。
鰊御殿が建つはずです。
漁場では大きなお金が動くので、漁村でも呉服屋や写真館そのほかの「贅沢品」の商いが盛んでした。
金が動くところに人が来ます。
ある漁場の親方が、幼い子供を亡くしました。
彼はとても悲しんで、彼女の遺体を写真に撮影して、座敷に飾っていたそうです。
死んだ子供に化粧をほどこして、綺麗な服を着せて、生きているように座敷に座らせて、背景に花鳥風月の実物や絵を配しました。
それを町の写真館の写真屋を招いて撮影させたのです。
どうも「悪趣味」な感じたと周りの人も噂したそうですが、本人の気持ちを考えると、まあわからないでもなかったと。
その写真は、立派な額(花が木枠に彫られていて、美しく着色されていました)に入って、奥座敷の鴨居近くに西を向かって掲げられていました。
その写真について、その主人はことさらに他の人に話すことはなかったそうです。
次の子供ができれば、その長女への執着は薄れたのでしょうが、残念ながらそれから子供はできませんでした。
その漁場の後継は、親戚の男の子を養子縁組したそうですが、その子は出征して戦死。
戦後のニシン漁衰退を待たずに、その漁場は他人に渡ったそうです。
この話。
早くに亡くなった子供の結婚写真を作って奉納するという話(ムカサリ絵馬=死者の結婚式)や「花嫁(婿)人形」(死者の伴侶)に似ていると思いました。
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