怖い話&不思議な話の投稿掲示板
投稿者「茉莉花 ◆YKNRA59o」 2019/01/04
どこの職場でもあることなのかもしれないが、私の勤め先では新年互礼会というものがある。三が日も明けぬうちから全職員が集められ、理事長の訓示と新年への決意を聞くのだ。
さして広くもないホールにそれなりの人数がひしめきあい、おまけに一時間弱立ちっぱなしなので、貧血で倒れる職員が毎年一人は必ず出る。職場側でも椅子を用意したり無理はしないよう勧告はするものの、この行事自体は無くなる気配はなかった。
その年も、朝早くから集められた大勢の職員は、葦のように並んで冗長な理事長の訓示を聞かされていた。私は少し俯いて、自分や周りの職員の足元に視線を泳がせながら、欠伸を噛み殺していた。
急に、私の斜め前の方から小さなどよめきが起こった。「大丈夫?」と気遣う声。また今年も、誰かが倒れたようだった。理事長はというと、チラリとどよめく辺りに目を遣っただけで、話を中断することはなかった。
そういうところがダメなんだよ。内心そう毒づきながら、視線を足元に戻した時だった。
小さくて白っぽい動物が、誰かが倒れたらしい方向から、職員の足の間を縫うように駆けてきた。
イタチに似ていたが耳が尖っており、何よりイタチよりも一回り小さかった。
なんでこんなところに動物が、と思ったが、その動物に注目している職員は誰もいなかった。気が付いていないだけかとも思ったが、足の間をああもスレスレですり抜けられて、気が付かない方がおかしい。どうやら、動物の姿が見え、なおかつ驚いているのは私だけのようだった。
動物は職員の足の間をチョロチョロとした動きでホールの出口に向かい、やがて見えなくなった。私はそれを目で追いすぎ、あのような場でキョロキョロと落ち着きがなかったと、互礼会終了後に現場主任からお叱りを受けた。
主任のお小言の後は、いつも通りの仕事が待っている。私は特別養護ろホームに勤務しているので、盆も正月も関係ない。それは利用者にしても同じようなもので、いつもと変わらないメンバーに苦笑しつつ、今年もよろしくお願いします、と一人ひとりに挨拶をして回った。
「イヌが出たな」
私の挨拶に唐突にそう返したのは、普段口数の少ないAさんだった。彼は元々の寡黙な性格に加え、軽度の認知症だったため、職員の声かけにすぐに応えることの方が少なかったのだが、今回の予想外の言葉に私は首を傾げた。
「はい?」
「イヌが出たろう。あんた達が話を聞きに行っているときだ。こんな小さいのが、出たろう」
こんな、とAさんはぎこちない手でバレーボールくらいの大きさを示した。
それを見て、私は先ほど見た小さな動物のことを思い出した。イヌ科と言われればそうかもしれないが、あれはどう見ても犬には見えなかった。
「あれ、犬なんですか?」
「そうよ。あれは、昔から隣のBが使うんじゃ」
Bさんは隣のユニットの寝たきりの利用者だった。話が変な方向に行きつつあると感じながらも、そのままAさんの話に耳を傾ける。
「あれは、若い者のイキをちっとばかり盗んでいくんじゃ。そしてBはまた少し生き永らえる。あんたも、気をつけんといかん。あいつは何もできん優男な風をして、腹黒いやつだから」
「イキって、なんですか?」
「命のことよ」
そこまで言うと、久しぶりのおしゃべりが堪えたのかAさんは目を閉じ、それ以上口を開くことはなかった。
私は驚きを隠せなかった。しかし話の内容を信じた訳ではない。認知症の方の話を否定しないのは基本中の基本だが、だからといって、Bさんが式神のようにイヌとやらをとばして命を少しだけ奪うなんて話、鵜呑みにする訳はない。
寡黙なAさんがここまで話をしてくれたことと、それが先ほど私が体験した不思議と合致していたことに驚いたのだった。
AさんとBさんは家が近く、確か昔からの顔なじみのはずだ。しかし今の口ぶりからすると、二人の仲はあまり良くなかったのかもしれない。昔からのそんな関係性が、攻撃的な言葉として今、発露されているのかもしれなかった。
私はAさんのそばを離れると、先ほど見た小さな動物のことを少し思った。あれは、なんだったんだろう。
しかし、そんな疑問はすぐに日常に忙殺されてしまい、その日の夕方には、不思議なものを見たことすらも、忘れてしまっていた。
一月も半ば頃、退勤時に更衣室で隣のユニットの職員とたまたま顔を合わせた。彼女は、新年互礼会の時に貧血で倒れた職員だった。
「今更だけど、大変だったね。もう平気なの?」
「もうすっかり。注目集めちゃって、恥ずかしかったです」
彼女は今から夜勤のようで、照れ笑いをしながら手早く着替えをしていたが、ふと思い出したように言った。
「そういえば、Bさんってわかります?」
「利用者さんの? わかるけど、どうしたの?」
「最近、調子がいいんですよね。年末は声も出せなくて、もう危ないかとも思ったんですけど。年が明けてからは食欲も出て、かなり遅れましたけど、昨日なんて新年の挨拶をしてくれたんですよ。わたしが担当してる方だから、嬉しくて。あちこちで自慢してるんです、わたし」
本当に嬉しそうに笑う彼女を、介護士の鑑だなと私も微笑ましく思った。
しかし一方で、年明けにAさんから聞いた「イヌ」の話を思い出し、まさかとは思いつつも、うすら寒くなったのだった。
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